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甲府ねこ(重複御免)-通番39号 

お盆は甲府にいないんだろうニャ
わっちの辞書には帰省っていう言葉はないんだニャ

ノラ39号


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Posted on 2018/08/13 Mon. 20:16 [edit]

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甲府ねこ(重複御免)-通番38号 

甲府は今日も猛暑日予報だニャ~
わずかな日陰も見つけるニャ~

23号と重複だけど、23号は未掲載だから、ねこだから細かいことにはこだわらないんだニャ~
ノラ38号

夏休みサービスの2枚目掲載ニャ
ノラ38号2

Posted on 2018/08/03 Fri. 10:10 [edit]

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大正10年の山梨日日新聞「妖怪研究」④完 

研究室のある甲府も連日35度超えの日が続いています。
梅雨が明けるのが早かったためか、例年より酷暑が続き、かなり参ってきています。

今朝の南アルプス方面の様子はコチラ↓ 最近霞んでいる日が多いです。
20180719風景

さて、前回からの狐狸続きということで、大正10年11月25日付けの「妖怪研究(二十二)狐の御馳走 =名医の恩に感じて」を紹介したいと思います。

妖怪研究の実験談原文は全ての組織や登場人物が具体的に固有名詞で書かれている(実在かどうかは一部のみしか確認していません)のですが、利害関係がある方が万一いらしては困るので、これまで全てイニシャルで表示しています。しかし、本話は原文同様主人公をはっきり書いておいた方がよいと考えたので、イニシャルではなく、固有名詞で書き進めたいと思います。

主人公は、 辻保順 という江戸時代から明治時代にかけての実在のお医者さんです。初代の保順守瓶翁(1750~1810年)は、現在の笛吹市春日居町国府で医業を始め、その子孫の多くも医業に従事され、明治時代の四代目までは保順を襲名していたようです。現在は十代目に当たる辻先生が埼玉県東松山市で医療法人保順会・辻保順医院(URL:http://tsuji-hojun-clinic.com/))という病院を経営されています。なお、この家の歴史は、血縁でもある仏文学者・作家の 辻邦生 氏が『銀杏散りやまず』(新潮社)という作品にも書かれています(庵主は斜め読みのみ)。

図にしてみました。
辻保順略系図

記事では、後半に登場する辻頼母氏を保順翁のひ孫と紹介されており、本話の保順翁は初代になります。

さて、妖怪研究の記事は以下のような内容です。

峡東八幡村(注)に辻保順という名の名医がいた。あるとき、狐が魚の骨をのどにひっかけて苦しんでいたのを救ってやったことがあった。その後しばらくすると、ある家から駕籠で迎えにきた。行ってみると、見慣れない家であったが、相当な資産家と見えて、立派な造りで、調度品も見事であった。立派な服装をした主人が出てきて、「先ごろはおかげさまで危なかった命が助かりました。今晩はようこそお出でくださいました」と保順翁に挨拶をしてから、家族に命じて、お膳を出し、善美を尽くした料理を並べて、饗応した。そうするうちに夜が更けてきた。
 村の百姓たちが野良へ出ようとして見ると、保順翁が畑の中に座って、いい機嫌で酒を飲んでいる。百姓たちは驚いて背中をたたくと、保順翁ははじめて気がついた。このような場合、狐の饗応は本物ではないのが普通だが、この時はすべて本物のご馳走で、しかも金蒔絵の膳や杯はそのまま残っていたのであった。だんだんと調べて見ると、前にのどの骨を抜いてやった狐が饗応したのであろうということになった。しかもその膳は、その夜近くの村の某家で行われた婚礼の席上から一人分をそっと持ち出してきたものであって、それは今も同家に保存されているはずだ、と。
 以上は、筆者の知り合いのある老人の話である。

(注)八幡村は現在の山梨市域の一部。後述のとおり辻保順医院は初代から六代目まで現在の笛吹市春日居町国府にあったので、八幡村ではない。

記事出典:湯本豪一『大正期怪異妖怪記事資料集成(上)』(国書刊行会、2014)1264頁


のどに刺さった骨を抜いてやると恩返しに来るという話は、民話によくある話です。
たとえば、オオカミなどを対象とした類話は山梨県内でも収集されています。たいていは、獲物を届けてくれたりとか、危険を知らせてくれたりとかの恩返しですが、実物の料理で饗応したとする点に化けることのできる狐の特徴があるかもしれません。

この記事にはまだ続きの話があります。

甲府市百石町(現:甲府市丸の内二丁目付近)の辻頼母氏は保順翁のひ孫にあたる人である。同氏に筆者がこのことを尋ねてみると、同氏は保順翁が狐を治療してやったことと狐が恩に感じて、保順翁が深夜に患者宅から帰るときは門前まで送ってきたということは聞いているが、饗応を受けたということは聞いていないとのことであった。同氏によると、辻家には武田信玄公の所持していた椀が家宝として伝えられているので、あるいはそれについての誤伝ではないかとも言っておられる。しかし、この椀は精神病者に枕許に置くと、不思議に病人の心を静め、これを治癒させる霊妙な力があるとのことである。


狐の饗応の話は裏が取れなかったようです。その一方で、病人を治す信玄公由来の椀 の話が登場するとは、さすが妖怪研究、怪異は尽きません。

大中院(笛吹市春日居町国府)にある現在の辻家墓所。笛吹市の史跡になっています。
辻家の墓

怪語れば、怪来る。
怪が本格的に来ないうちに、大正10年の山梨日日新聞「妖怪研究」の記事紹介は終わりにしたいと思います。

Posted on 2018/07/19 Thu. 10:38 [edit]

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甲府ねこ(重複御免)-通番37号 

西日本の大雨で被災した仲間たちのご無事をお祈りします。

暑いけど、知らん人が来たから、スクっとニャ

ノラ37号

Posted on 2018/07/12 Thu. 12:13 [edit]

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大正10年の山梨日日新聞「妖怪研究」③ 

研究室のある甲府も昨日までは連日30度越えの暑い日が続いていました。
今日は雨が降ったり止んだりで、多少は過ごしやすくなっています。

今朝の南アルプスの様子はコチラ↓ 山裾しか見えません。どんより。
20180704風景

さて、「妖怪研究」の事例紹介の2回目です。
今回は、「妖怪研究」の中で数少ない、現代的な(水木しげる先生的な?)語感としての「妖怪」が登場する、大正10年11月20日付け「妖怪研究(十九)樹木の精? =斧を下せね相生の松」です。
この話は、甲州の金山で有名な黒川山の鶏冠神社のご神体(神器)をめぐる祟り話である「神器の祟り? =手にしたもの皆病む」と同じ回に2本立て記事のひとつとして掲載されていました。

次のような内容です。

 東山梨郡八幡村(現:山梨市)のF氏の話。
 同郡平等村(ひらしなむら。現:山梨市)に龍石山永昌院という古刹があります。その持山は松の古木が鬱々として、天にも届かぬばかりの深い森でしたが、昨年(大正9年)8月にこれらの木を売り払うことになり、大勢の木こりが入って、おりからの強い日差しの下、斧をふるって松の古木を切り倒してゆきました。
 ところが、大澤区(所在未確定-2018/07/14追記:万力金櫻神社の山手、山梨市落合に大沢という小字名がありました。現在は果樹園になっています)に一本の相生の松がありました。昔から相生松は切ると祟りがあるというので、この松は残しておくしかないと、木こりたちも手を出すのを躊躇していました。その中である木こりがじっくりとこの松を眺めていましたが、こんな良材はなかなか得られるものではないと、人の止めるのも聞かず、斧を入れようとしました。その瞬間、全山を揺るがさんばかり鳴動が起こって、にわかに沸き起こった黒雲の中に怪しい大入道の姿が見えたので、木こりは驚いて一目散に逃げ帰ったそうです。それから大病をして、長い間寝ていたものの、かろうじて全快したとのことです。
 大澤区ははげ山となりましたが、この相生の松だけは今も残って、入道松と呼ばれているそうです。

記事出典:湯本豪一『大正期怪異妖怪記事資料集成(上)』(国書刊行会、2014)1263頁



舞台となった龍石山永昌院 は、山梨市矢坪に実在する、曹洞宗のお寺です。もともとは真言宗のお寺で金峰山を中心とする山梨の修験に関係したとも言われていますが、15世紀には武田氏の庇護を受け、曹洞宗に改宗し、栄えたとされています。
お寺のURLはコチラ→ http://www.eishouin.jp/



この永昌院の持山の持山に相生の松が生えていたとされています。
ところで、相生の松とは、2本の松が1本の根から生えているように見える松などをいい、夫婦の契りをあらわしたり、霊妙さをもったものと考えられてきました。

今回市町村誌などを調べてみましたが、その範囲では記事のようないわれを持った永昌院の松の話は見つけられませんでした。

なお、永昌院の江戸時代の寺領※は、落合村(現:山梨市落合)内と松本村(現:笛吹市松本)内にあったとされています。これらの寺領のどこかにあったものとして、お話は進んでゆきます。ただし、寺社領は、明治初めの上知令によって、境内地を除き、国有化されていましたが、明治32(1899年)の国有土地森林原野下戻法により所有または分収が認められることなっており、今回の話も、持山の伐採が事実であれば、永昌院が同法により下げ戻された権利に基づいて木材の伐採をしたものと推測されます(未調査)。

上記の通り霊妙な松であるがゆえに、切ることをためらう木こり(原文:杣)たちをしり目に、斧を入れようとすると、大入道が出現します。

大入道は、ポピュラーな怪異で、北は東北から、南は九州まで出現しています。
たとえば、水木しげる『図説 日本妖怪大全』(講談社、1994)90頁 は、仙台藩で黒雲の中から現れた大入道を伊達政宗が退治したところ大カワウソだったという話が出ていまし、日文研「妖怪・怪異伝承データベース」http://www.nichibun.ac.jp/youkaidb/)でも60件以上の出てきました。それらの事例をみると、その多くは、大入道の正体について、狐狸やイタチ、カワウソなどの小動物が化けた物としています。

この話では、出現した大入道の正体も分かりませんし、また、相生の松との関係もいまひとつ判然としません。
ただし、怪異とはこのようなものだともいえます。

Posted on 2018/07/04 Wed. 14:47 [edit]

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大正10年の山梨日日新聞「妖怪研究」② 

今週いっぱいで6月も終わります。
夏越の大祓に行かなければなりませんが、さてどこの神社に行くのでしょう。

今日の南アルプスの様子↓ 梅雨らしく厚い雲に覆われています。
20180628風景

さて、前回の記事で書いていたように、大正10年に山梨日日新聞に連載された「妖怪研究」からひとつお話を紹介しておきたいと思います。幽霊譚は避けると書いていましたが、研究室の近所にある 甲府市立新紺屋小学校(明治16年設立) が出てくる幽霊譚--大正10年11月8日付け「妖怪研究(八)納棺の姿其儘に=声迄かけて兄を呼ぶ」--を紹介しておきたいと思います。

意訳していますが、以下のような事例だったそうです。

 新紺屋小学校の先生であるG氏の話。
 本年(大正10年=1921年)6月、新紺屋小学校の1年生のS君(8歳)は、ふとした病気からわずか1、2日寝込んだだけで、死んでしまいました。ちょうど葬儀の夜は大雨でしたが、近所の友人は男の子も女の子も、幼くして死んだS君のために泣き、雨にぬれながらも火葬場へと急ぐ霊柩車(当時は自動車ではなく、台車のようなものだと思われます)を送っていました。しかし、火葬場への道は遠いし、また、夜となり暗くなっているだけでなく、雨が激しく降るため、喪主は柩を見送る子供たちに帰るように言って、無理に帰ってもらいました。それでも親しい友人は雨の中に立って、進んでゆく柩を見送っていました。しばらくすると、ひょっこりと霊柩車の後ろに白地の着物を着て、素足に靴を履いた子供が現れて、さびしげについているではありませんか。柩を送っていたある人がその危なげな様子を見かねて、「危ないから帰った方がよい」とその子供を押すと、その姿は消えてしまいました。
 それから数日過ぎたある日の夕方、死んだS君の兄のK君やそのほか2、3人の友達が集まって、S君の話などをして遊んでいると、「Kちゃん、お家に帰ろうよ」と呼ぶ声がしました。これを聞いた一人の子供が声のした方を振り向くと、白地の着物に素足に靴をはいたS君の姿がありありと見えました。その子は、突然のことで、S君の死んだことも忘れて、「Kちゃん、Sちゃんが・・・」と思わず叫んでしまいました。K君は「Sは死んでしまったじゃないか」といいながら振り返えりましたが、そのときにはもう姿が見えなかったということです。しかし、「Kちゃん、お家に帰ろうよ」と呼んだ声だけは、確かに兄のK君の耳にも響いたということです。
 白地の着物に、帽子もかぶらず、素足に靴をはいた姿は、納棺の時のS君の姿でした。

記事出典:湯本豪一『大正期怪異妖怪記事資料集成(上)』(国書刊行会、2014)1255頁



ここに出てくる火葬場は、大正2年に古府中町内に設けられた火葬場のことだと思われます。設備はもちろん更新されていますが、現在でも同じ場所にあります。

火葬場に続く道以外の場所設定は不明ですし、当時と現在では周囲の状況は異なるのですが、ご参考までに国土地理院の電子国土(http://maps.gsi.go.jp/?z=5&ll=35.99989,138.75#5/35.999890/138.750000/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1)のデジタル地図を加工したものを上げておきたいと思います。

加工した地図はこちら↓ 甲府駅の北東方面です。
妖怪研究8地図

現在の私たちから見ると、非常にシンプルな幽霊譚です。
しかし、何とも言えないさびしさを感じる話だと思います。

Posted on 2018/06/28 Thu. 16:25 [edit]

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大正10年の山梨日日新聞「妖怪研究」① 

梅雨時のうっというしい気候が続いています。
そんな中、大学の前期の講義も3分の2を過ぎて、いよいよラストスパートです。

今朝の南アルプスの様子はコチラ↓ 残雪もかなり少なくなっているようです。
20180622風景

さて、前回の記事では、明治9年(1876年)の山梨[ママ]日日新聞に掲載された「 アリエ 」の記事を紹介させてもらいました。その流れの中で、同じく 湯本豪一 氏の編集にかかる 『大正期怪異妖怪記事資料集成(上)』(国書刊行館、2014年) を眺めていたところ、興味のある連載を発見しました。

その連載は、山梨日日新聞大正10年(1921年)10月29日から同年12月18日にわたって連載した「 妖怪研究(一)~(三十八) 」です。

妖怪研究とは銘打っているものの、採用されているエピソード(実験談)は、ほとんど幽霊譚(死に際しての知らせも含む)であり水木しげる 先生的な妖怪も、柳田国男 先生的な妖怪も出てきません。どんな妖怪出てくるかとちょっと期待していたのですが・・・
とはいうものの、せっかくなので、リストにまとめて、以下のとおり画像を張り付けておきました。ご興味を引けば幸いです。

-------【アップ後加筆】
記事アップしてみたところ、下記のリスト画像はポップアップしないと見づらかったので、アップ後の加筆として、タイトルのみあげておきます。

(一) 幽霊は実在するか
(二) 小兒の幽霊
(三) 惨殺されし女の亡霊・・・第三者にも見ゆ
(四) 老婆の包帯姿 目撃したものが二人
(五) 死の事実を =人に告げ知らす
(六) 花魁の幽霊 =何も知らぬ人の部屋へ
(七) 横浜から甲府迄 =姉の魂が来た
(八) 納棺の姿其儘に =声迄かけて兄を呼ぶ
(九) 朝餉の仕度せる =母の傍に愛兄の姿
(十) 神憑りといふ事 =神体を盗んだ男
(十一) 水死人の知らせ =漁夫、銛が残る
(十二) 怪しき光り物と血塗れ姿(上) =日露役の戦死者
(十三) 怪しき光り物と血塗れ姿(下) =日露役の戦死者
(十四) 死人が打つ電報 =葬式後十一日目に
(十五) 夢の話(上) =愛兒の死の前に
(十六) 夢の話(下) =小松怨霊の有縁の婦人尋来る
(十七) 白昼幽霊と立話 =ほくろの数迄勘定した
(十八) 死人のお暇乞 =落合村から信州迄
(十九) 神器の祟り? =手にしたもの皆病む
      樹木の精? =斧を下せぬ相生の松
(二十) 女巡礼の呪い? =怪火に一村全滅
(二十一) 稲荷様のお使? =見慣れぬ二人の子供
(二十二) 狐の御馳走 =名医の恩に感じて
(二十三) 幽霊を見た人の話 =手をかけた刹那消ゆ
(二十四) 紫矢絣の美女 =桜井剣道教師の実験
(二十五) 死の予感 =倉田白宰氏の書簡
(二十六) 弘法大師の奇瑞? =枕許に仏像の腕・・・
(二十七) 死霊の住む家 =催眠術で少女が語る 壁に残る怪しき影
(二十八) 幽霊の添乳で成長した人 =現に生存して居る
(二十九) 夢遊病者の魂? =フワフワと舞ひ歩く
(三十) 便所の丸髷姿 =連隊士官も青くなる
(三十一) 姉の亡魂が =遠く満州まで
       愛する女中の許に =主人の死の知らせ
(三十二) 経を読む石地蔵 =大正8年中にも読んだ
(三十三) まさかと思って居た、地蔵が経を読む =養父が死の前に
(三十四) 改札口に亡き妻の姿 =最近の出来事
(三十五) 生霊の訪問 =相思の男女間にて
       神隠しに会った男 =一週間行方不明
(三十六) 魂の持って来た風呂敷包み =弟妹三人の許へ
(三十七) 霊魂の実体(一)
(三十八) 霊魂の実体(二)

発生時期や発生場所、内容の概要は、面倒でも以下のリスト画像をポップアップしてご覧ください。
【加筆おわり】-------

妖怪研究1
妖怪研究2

このあとも不定期にではありますが、この記事の中から何編か--できれば幽霊譚や神仏譚以外で--をピックアップして紹介してゆきたいと思います。

Posted on 2018/06/22 Fri. 11:25 [edit]

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