この週末の甲府は「信玄公祭り」 

今週末の甲府は、信玄公祭り という春のイベントが開催中のようです。
研究室の庵主は、昨日締め切りだった論文の原稿をバタバタと書いてこともあって、このお祭りに興味がありません。

記事の更新が空くのを避けるため、お茶濁しとして、甲府駅北口の特設ステージの写真をアップしておきます。特に感想とかコメントはありません。

ステージ上の 名も知らぬゆるキャラたち の様子はコチラ↓ SNSネタレベルですね。 
20180407風景

山梨もいよいよ観光シーズンです。


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Posted on 2018/04/07 Sat. 16:59 [edit]

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同窓会での話題2題(追加情報つきだよ~) 

いよいよ新年度です。
論文の締切が迫ってきていることもあり、この週末にかけて関西の図書館に行っていました。

ところで、週末には英国の大学で教鞭をとっている同級生が一時帰国したことに合わせ、19××年に京都大学に入学した何人かが関西某所に集まり(みんな卒年が違うので、入学年で集まります)、夕食会も開かれました。そこで出た話題を2題。

1.タオルの日
参加メンバーの一人が関係している団体で「タオルの日」を制定したそうです。4月29日なのでこれからですね。

翌日、メールに添付されたちらしがコチラ↓ 画像化の際、字が読めなくなっちゃいました。
タオルの日

キャンペーンの趣旨は、4月29日が 「よ(4)く ふ(2)く(9) タオルの日」として、「この日ばかりは家族みんなでタオルのことを思い出しそうよ」というのことです。4月23日から29日までの一週間は、梅田のBIGMANで30分に30秒ほどテーマソングのPV放映も行うそうです。梅田近辺で待ち合わせの際は、ご覧下さいとのことでした。

2.京都大学の祟地蔵
先日このブログでもとりあげた 田中貢太郎『日本怪談実話<全>』 (河出書房新社、2017) に掲載されてる「京都大学の祟地蔵」という一篇も話題になりました。

ご存知のない方のために少し長くなりますが引用しておきます。上記書籍51頁以下です。

 大正八年京都大学では、動植物学の教室を建設するために、百万遍知恩寺の東方白川街道に沿うた土地を購入して、地均し工事をやったところで、地の中から石地蔵が数多出てきた。地均しに従事していた土方たちは、
 「石地蔵では、石垣にもならず、漬物の押しにしては、勿体ない、こないな物は、捨て場にも困る」
 と云って構内の隅に投げだし、やがてその石地蔵に腰をかけて、暢気そうに午の弁当を啖う者もあれば、
 「石地蔵やないか、こないな物が、何で勿体ない」
 と云いながら容赦なく小便をしかける者もあって、曾ては地蔵菩薩として尊崇の的になっていた事もあったと思われる石地蔵も、土方たちの前には何の威光もなかった。ところで、土方たちが石地蔵を凌辱し初めてから間もなく、工事請負人の小島某が容態の判らない急病でころりと死んでしまった。するとだれ云うとなく、それは石地蔵の祟りだと云いだしたが、大学の方では、
 「石地蔵が祟る、そんな馬鹿なことがあるものか」
 と云って一笑に附した。
 そのうちに工事はどんどん進捗して、木造ではあるが堂々たる洋館が出来あがった。その時になって、その建築にたずさわっていた大工の棟梁の服部というのが死んだ。続いて土方の某が死に、それから大学の建築部長山本治兵衛が死んだ。会計課長の今井と云うのは、その時樺太へ出張していて樺太で死んだ。
 「それ見い、こんなにこの建築に関係した人が死ぬのは、みんな地蔵さんの祟りだよ」
 と云って、工事人足、出入り商人、小使たちは、寄ると触るとその噂で持ちきった。
変な信仰を持っていた出入り商人の一人は、紀伊郡櫓大路村の稲荷下げの婆さんの家へ駆けつけた。八十あまりになる稲荷下げの婆さんは、神祓の後で、
 「地蔵の祟りじゃ、石地蔵と云っても、あれは元来大日如来じゃ、大学ではお祭りをしないばかりか抛りだして尿をしかけたりするから、如来さんが大変な御立腹で、まだ六人まで命を奪ると云うてござる、一日も早くお祭りして、特に水は毎日お供えせんとなりませんぞ、それに古狸がまだ二疋おる、それは一疋は義春、一疋は三九郎と云うから、これもよくお祭りをせぬと怒っとる」
 と云った。出入り商人は飛んで帰った。さあ大変だ。まだ六人の命を奪る。命を奪られるのはだれも厭だ。命を奪られるのが厭なら大日如来を祭らなければならぬ。そこで動植物学教室の建設に主力を尽くしていた池田教授に、相談を持ちかけたところで、同教授は鼻端で笑って、
 「ほう、そうか、それゃえらいこっちゃが、まさか大学では、ね、君たちで然るべくやったらどうだ」
と対手にならなかった。ところがその池田教授は、僅かに四五日の病気で大学病院で死んでしまった。こうなると迷信だと笑っていられなくなった。そこで小川、川村、郡場、小泉の諸教授が若干寄附し、出入りの商人も醵金して、二百円余で構内の東南に二坪ほどの台場を築き、それに石地蔵を並べ、狸の祠も作って花を飾り、餅や赤飯を供えて、厳かに祭典を執行し、続いて毎年盆の二十八日に、例祭を行うことになったので、その後は何の事もなくなった。



この話が出たとたん、京大教授をしている参加メンバーの一人が「そうそう」と言っていたので、何がそうそうなのか疑問に思ったものの、流してしまったのが残念でした。

舞台になっていたのは、今出川通の北側にある京大の北部構内ですね。


「京都大学の祟地蔵」には、上で引用した北部構内での話のほかに医学部キャンパスと思われる場所での怪談話も掲載されていました。興味のある方は本を買ってお読みください。

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<追加情報(2018/04/05)>
1.『北白川こども風土記』(山口書店、1959)の地蔵の話
 菊地暁「北白川と人文研―『北白川こども風土記』を読む―」「連載 人文研探検―新京都学派の履歴書(プロフィール)―」第15回」より  http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/jinbunken/0015.html

大正十年ごろ、追分町のへんに、大学の地質学教室を建てる時、地ならしをしていると、一メートルほどの地面の中から、高さ三十センチぐらいの石のおじぞうさんが、五十こ以上もほり出されてきたそうです。
それで、工事をしていた人夫さんたちは、そのおじぞうさんたちを工事場のかたすみに、雨などにうたせて、らんぼうにつんだままにしておきました。そんなことをしてばちがあたるとは、人夫さんたちも思わなかったのでしょう。ところが、それからというものは、人夫さんの中には、毎日のようにけがをしたり、ひどい人になると屋上からおちて死んだりする人もでてきました。
そこではじめて、人夫さんたちは、「これはなにかのばちがあたったんだ。」と言い出すようになりました。
また大学の方でも、それはおじぞうさんをほったらかしにしていたから、ばちがあたったのだと思って、それからは、農学部の電車のていりゅう所に近い、本屋さんの横のあき地に、おじぞうさんのお堂をこしらえて、ていねいにまつるようになったということです。
またその時、名高い湯川博士のおとうさんは、自分の研究所のそのじぞうさんをわざわざもってきて、ばちがあたらないようにとまつったという話です。(岩本哲哉「小さなおじぞうさんたち」p.75)


2.その他ネット上の情報
○ http://sanzui1022s.lemonblog.co/entry/145/
○ http://flattravel.blog.fc2.com/blog-date-20150906.html

Posted on 2018/04/01 Sun. 19:39 [edit]

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家族法メモ-犬神佐兵衛翁の遺言(2) 

いよいよ年度末となりました(明日から不在なので、今日が実質最終日)。

今朝の南アルプスの様子はコチラ↓ 霞んでいます。
20180328風景

さて、引き続き犬神佐兵衛翁の遺言のことです。
前回家族法の教科書が云々と書きましたが、念頭にあったのは神戸大学の 窪田充見教授 の教科書(窪田充見『家族法[3版]』(有斐閣、2017年)501頁以下)でした。若干勉強くさくなるものの、窪田先生の教科書の解説をつまんでゆきたいと思います。

窪田教科書

まず
遺言の第1項「犬神家の全財産、ならびに全事業の相続権を意味する、犬神家の三種の家宝、斧、琴、菊はつぎの条件のもとに野々宮珠世に譲られるものとする。」という部分ですが、三種の家宝の承継を通じて全財産を珠世に譲ることを意味するとし、このような遺言による承継は 包括遺贈 だと理解することができそうだとされています。包括遺贈とは、遺言によって、特定の財産を承継させる特定遺贈jと対置される概念であり、遺産の全部または一定の割合で示された部分を承継させるものをいいます。佐兵衛翁の遺言では全部ですね。

ただし、他の部分(たとえば第3項、第5項)にも照らすと、珠世が全財産を取得するのは相続によってであるようにもみえるが、包括遺贈者は相続人と同一の権利義務を有する点などからするとあまり神経質になる必要はないとされています。また、全財産の遺贈ということになると、遺留分減殺請求の問題になる可能性も指摘されています(この点は次回)。

次に
遺言の第2項の珠世が全財産を承継するためには、「その配偶者を、犬神佐兵衛の三人の孫、佐清、佐武、佐智の中より選ばざるべからず。」とする部分について、いかにも公序良俗に反しそうな気がする(公序良俗違反なら無効となる)とされつつ、佐兵衛翁の三人の孫の誰かと結婚した場合には、全財産を与えるということであれば、目くじらをたてるようなものではないと評価されています。しかし、この部分が本品中で殺人事件を招くことになるのですが・・・

そして
遺言の第3項の「野々宮珠世にして、斧、琴、菊の相続権を失うか、あるいはまたこの遺言状公表以前、もしくは、この遺言状が公表されてより、三か月以内に死亡せる場合には、犬神家の全事業は、佐清によって相続され、佐武、佐智のふたりは、~、佐清の事業経営を補佐するものとす。」と「犬神家の全財産は、犬神奉公会によって、公平に五等分され、その五分の一ずつを、佐清、佐武、佐智にあたえ、残りの五分の二を青沼菊乃の一子青沼静馬にあたえるものとする。」の部分は、いわゆる 補充遺贈 に、同項但し書きの「分与をうけたるものは、各自の分与額の二十パーセントずつを、犬神奉公会に寄付せざるべからず。」の部分は、裾分け遺贈 に該当するとされています。補充遺贈とは条件のついた遺贈をいい、また裾分け遺贈とは遺贈によって受ける利益の一部を他の者に与えなければならないとする負担の付いた遺贈であるとされています。

最後に
窪田教授は、教科書らしく、この事例から何を学ぶかを記述されているので、その部分を引用しておきます。
この遺言について、一定の法的意味付けを与えることはできないわけではない。でも、結局、激しい財産争いが生ずるような遺言を書いちゃいけません……というのが、正直な感想である。なるほど自分の財産である以上、それを自由に処分できるというのは出発点である。しかし、死後の財産の行方にういて、あまりに執着すると、どうも誰も幸せになれないおうな気がする。少々まじめな話に戻すと、跡継ぎ遺贈の議論についても、ひょっとしたら、そうした側面があるのではないかという気もしている。」

<つづく>

Posted on 2018/03/28 Wed. 13:08 [edit]

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家族法メモ-犬神佐兵衛翁の遺言(1) 

庵主の勤める大学では本日が卒業式です。
快晴になり、貸衣装の卒業生にとっては天候に良き日となりました。

今朝の南アルプスの様子はコチラ↓ 一昨日の雪が残っているようです。
20180323風景

さて、久しぶりに法律の話題をアップしておきたいと思います。

横溝正史 の代表作のひとつに「 犬神家の一族 」があります。この作品は、長野県那須市(もちろん架空の場所です。諏訪がモデルといわれています)において日本有数の製糸会社を一代で築いた犬神佐兵衛翁が遺した遺言をきっかけに起きた惨劇と名探偵金田一耕助の事件解決までの活躍を描いたものであり、この遺言が重要な役割を果たしています。

少し前、家族法の授業のためにいくつかの教科書をながめていたところ、犬神家の遺言に関してコメントをしている家族法先生がいらっしゃいました(内容は次回以降にとりあげます)。近頃の学生は「犬神家の一族」といっても知らない危険性があるので、授業で言及はしませんでしたが、この機会には家族法上のいくつかの論点をまとめておきたいとおもいます。だだし、研究室の庵主は家族法の専門家ではないので、教科書レベルの整理になるとおもいます。

まず、最初に犬神家の遺言の内容を抜き出しておきましょう。なお、以下作品からの引用は横溝正史『犬神家の一族』(KADOKAWA、改版、1998)を底本にします。

遺言状の条項(65‐70頁)

ひとつ  ……犬神家の全財産、ならびに全事業の相続権を意味する、犬神家の三種の家宝、斧、琴、菊はつぎの条件のもとに野々宮珠世に譲られるものとする。

ひとつ  ……ただし野々宮珠世はその配偶者を、犬神佐兵衛の三人の孫、佐清、佐武、佐智の中より選ばざるべからず。その選択は野々宮珠世の自由なるも、もし、珠世にして三人のうちの何人とも結婚することを肯ぜず、他に配偶者を選ぶ場合は、珠世は斧、琴、菊の相続権を喪失するものとす。……

ひとつ  ……野々宮珠世はこの遺言状が公表された日より数えて、三か月以内に、佐清、佐武、佐智の三人のうちより、配偶者を選ばざるべからず。もし、その際、珠世の選びし相手にして、その結婚を拒否する場合には、そのものは犬神家の相続に関する、あらゆる権利を放棄せしものと認む。したがって、三人が三人とも、珠世との結婚を希望せざる場合、あるいは三人が三人とも、死亡せる場合においては、珠世は第二項の義務より解放され、何人と結婚するも自由とす。

ひとつ  ……もし、野々宮珠世にして、斧、琴、菊の相続権を失うか、あるいはまたこの遺言状公表以前、もしくは、この遺言状が公表されてより、三か月以内に死亡せる場合には、犬神家の全事業は、佐清によって相続され、佐武、佐智のふたりは、現在かれらの父があるポストによって、佐清の事業経営を補佐するものとす。しかして、犬神家の全財産は、犬神奉公会によって、公平に五等分され、その五分の一ずつを、佐清、佐武、佐智にあたえ、残りの五分の二を青沼菊乃の一子青沼静馬にあたえるものとする。ただし、その際分与をうけたるものは、各自の分与額の二十パーセントずつを、犬神奉公会に寄付せざるべからず。

ひとつ  ……犬神奉公会は、この遺言状が公表されてより、三か月以内に全力をあげて、青沼静馬の行方の捜索発見せざるべからず。しかして、その期間内にその消息がつかみえざる場合か、あるいはかれの死亡が確認された場合には、かれの受くべき全額を犬神奉公会に寄付するものとす。ただし、青沼静馬が、内地において発見されざる場合においても、かれが外地のいずれかにおいて、生存せる可能性がある場合には、この遺言状が公表されたる日より数えて向こう三か年は、その額を犬神奉公会において保管し、その期間内に静馬が期間せる際は、かれの受くべき分をかれに与え、帰還せざる場合においては、それを犬神奉公会におさむるものとする。

ひとつ  ……野々宮珠世が斧琴菊の相続権を失うか、あるいはこの遺言状の公表以前、もしくは公表されて三か月以内に死亡せる場合において、佐清、佐武、佐智の三人のうちに不幸ある場合はつぎのごとくなす。 その一、佐清の死亡せる場合。犬神家の全事業は協同者として佐武、佐智に譲らる。佐武、佐智は同等の権力をもち、一致協力して犬神家の事業を守り育てざるべからず。ただし、佐清の受くべき遺産の分与額は、青沼静馬にいくものとする。 その二、佐武、佐智のうち一人死亡せる場合。その分与額同じく青沼静馬にいくものとす。以下すべてそれに準じ、三人のうち何人が死亡せる場合においても、その分与額は必ず青沼静馬にゆくものとなし、それらの額のすべては、静馬の生存如何により前項のごとく処理す。しかして佐清、佐武、佐智の三人とも死亡せる場合に於ては、犬神家の全事業、全財産はすべて青沼静馬の享受することとなり、斧、琴、菊の三種の家宝は、かれにおくられるものとなす。


作品中では、「犬神佐兵衛翁の遺言状は、実際はもっと長いのである」とされ、「そこには野々村珠世をはじめとして、遺言状の中に名前があげられる、佐清、佐武、佐智の三人のいとこ、ならびに青沼静馬なる人物と、この五人の人間の生と死との組み合わせが、あらゆる場合の可能性を追究していく、一種のパズルのようなものであった」とされています(70頁)。

登場人物は遺言者である犬神佐兵衛翁を含めて7人ですね。作品を読まれたことのない方、たびたび制作された映画等をご覧になったことのない方のために、人物関係を明らかにする必要があるのですが、面倒なので、ウィキペディアの記事「犬神家の一族」を参考にしてください。
URL  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E7%A5%9E%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%8F

<つづく>

Posted on 2018/03/23 Fri. 10:52 [edit]

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甲信御岳参詣道の復活⑮-オオカミ護符 

またまた更新が空いてしまいました。
研究室ある甲府もここ数日最高気温が20度を超え、過ごしやすくなっています。

今朝の南アルプスkの様子はコチラ↓ 少し霞んでいます。前山の雪は消えたようです。
20180315風景

さて、今日はオオカミ護符を出す社寺について、備忘を作っておきたいと思います。
植月学「甲州周辺における狼信仰」山梨県立博物館研究紀要2集(2008年)15-17頁によると、山梨県内でオオカミ護符を出していたとされる社寺はつぎのとおりです。なお、この論文は機関リポジトリ( http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/kiyou2_uetsuki.pdf )でも読むことができます。

○王勢籠神社(上野原市和見)
中山笑『共古随筆』(1987年復刻版)によると、大小の天狗が左右に立ち、神犬二匹が並ぶお札を出していた。

○大滝不動(甲州市勝沼町菱山)
直良信夫『日本産狼の研究』(校倉書房、1965年)277頁が紹介。植月の調査では狼の札を出していたという話は聞けなかったとのこと。

大滝不動尊の本堂と雄滝を見上げる(2017年2月撮影)
大滝不動

金櫻神社(甲府市御岳)
前掲・直良も紹介。
お守り売り場(反射御免)
金櫻護符

○北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市上吉田)
植月・前掲によると『日本民俗宗教辞典』(東京堂出版、1998)195頁に資料が掲載されているとされる。植月自身は同様のお札は存在しないと指摘している。

○三峰神社(富士吉田市小明見)
植月・前掲によると現在は出していない。

○栃代山の神(身延町杉山)
直良・前掲も紹介。お札は主祭神の大山津見神の足元に狼が座る図像(前掲植月論文17頁に図版あり)。

随時、修正補足します。

【補足1(2018/03/20)】同人誌とのことだが、書籍発見。「お犬様の御札~狼・神狗・御眷属~」(改訂版)
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=57048401





Posted on 2018/03/15 Thu. 15:39 [edit]

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辰野美術館サテライト展示をのぞき見 

明日は国立大学の個別学力試験(前期日程)です。
研究室の庵主の大学でも医学部を除いて全学部で試験が実施されます。一年で最大の行事ですね。

さて、前日には裏山とて遭難リスクのある甲府なので、お山には入らず、思い立って中央線旧線--いわゆる辰野支線--の旅にでてきました。

ウイキペディア「辰野駅」より。辰野支線は岡谷~辰野~塩尻の緑の線ですね。
辰野支線

今日は鉄道ネタではなく、途中の辰野駅で偶然出くわしたイベントを紹介しておきます。
こんなイベントでした。最近あちらこちらで見かけますね。
辰野1

ローカル線故の乗り継ぎ時間1時間の間に、辰野駅付近にあった「辰野美術館サテライト展示」をのぞき見してきた次第です。

長田家
辰野2

大勢いらっしゃって、どなたがどなたか分かりません。

森の蔵
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コメントありません。

ゲストハウス「古民家 ゆいま~る」
辰野5
辰野4
辰野7
辰野6

手作り感満載です。
せっかくのおひなさまなので、「由緒等がわかるようになっていればいいのに」とスタッフの方には伝えておきました。

たくさん写真を使わせてもらった「古民家 ゆいま~る」さんの宣伝をさせてもらいます。

正面はこんな感じです↓ 180年前に移築された建物だそうです。
辰野8

さらにご興味ある方のために、URLを張り付けておきます。
https://kominkayuimaaru.jimdo.com/

庵主的に興味があったのはコチラ↓ ミーヤ に会うことはできず・・・
辰野9

Posted on 2018/02/24 Sat. 17:29 [edit]

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田中貢太郎の採集奇談 

今日で後期の業務は、前期・後期の個別入試と関連業務を除いて、山を越えました。

今朝の南アルプスの様子はコチラ↓ 雲がかかっていました。
20180216

たまたま読んでいた 田中貢太郎『日本怪談実話<全>』 (河出書房新社、2017)272-273頁 に、甲府の話が出ていたので、庵主の備忘を兼ねて紹介させていただきます。なお、筆者の田中貢太郎とは、大正期に活躍した作家で、最近では文芸の一分野にもなっている実話系怪談も書いています。この本の原著も、1937年に出版された同氏の 『新怪談集(実話篇)』(改造社) をもとにしているとのことです。

では、さっそく・・・

「鉄道線路を走る少年」
 大正十一年七月二十二日の事であった。甲府市外相川村*の相沢栄吉の長男富雄は、その時十一で相川小学校*の三年生であったが、その日の午前中、太郎と云う友達と二人で連隊*付近の山へ花摘みに往ったが、午過ぎになって太郎は帰って来たが、富雄は帰って来なかった。
 富雄の家では心配して、太郎に訊いてみると、山へ往って遊んでいると、睡くなってぼうっとしているうちに、富雄がいなくなったので、独りで帰って来たと云った。
 相沢家では驚いて、村の人を頼んで山の中を捜していると、六時比になって、長野県西筑摩郡日義村*から、富雄君を保護しているから伴れに来いと云う電報が来た。相川村から日義村まで約三十里あるので、相沢家では不審に思ったが、富雄がいると云うので早速父親の栄吉が迎えに往った。
 富雄を保護してくれていた者は、元日義村の助役であった清沢と云う人であったが、その話によると、午後六時比、同村宮越付近の鉄道線路*を、阿父さん阿父さんと云って泣きながら、藪原*の方へ走って往く少年があるので、呼び止めて訊いてみると、相川村の者だと云うし、穿いている麻裏の緒に、相沢富雄と書いてあるので、ともかくも日義村の小学校長の許へ伴れて往って、学校の眺望台に立たせて、どっちの方角から来たと云えば、山の方へ指をさして、あの山からだと云った。学校はと問えば、師範学校附属小学校*、校長はと問えば、浜幸次郎*と答えた後で、家はこの近所だから線路を伝って往けば、帰れるだろうと云って、そのまま駆け出そうとするので、引き留めておいて電報を打ったとの事であったが、それにしても一銭の金も持っていないので、汽車には乗れないし、元より子供の足で三十里を半日で歩けるものでない。それには現代の常識では判らない何事かがあったように思われる。


*相川村:1937年に甲府市と合併。古府中町、上・下の積翠寺町、塚原町などの付近。
*相川小学校:甲府市古府中町にある甲府市立相川小学校の前身か?


*連隊:甲府にあった甲府四十九連隊のこと。現在の国立甲府病院、山梨大学付属小学校あたりに駐屯地があった。
*日義村:現在の木曽郡木曽町の一部。
*宮越付近の鉄道線路:中央西線のことと思われる。現在も宮ノ越駅という駅がある。


*藪原:木曽郡木祖村に薮原駅がある。宮ノ越駅と奈良井駅の間。宮ノ越駅からみると一応は甲府方面
*師範学校附属小学校:大正11年なら山梨県師範学校の附属小学校(現在の山梨大学付属小学校)。本文の最初で相川小学校といっていたことと矛盾。
*浜幸次郎:1915年から1919年まで山梨県師範学校長を務めていたようだが、詳細要調査。

田中貢太郎

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おまけ 宮ノ越駅付近の集落方面(2018年2月21日に列車内から撮影)
20180221宮ノ越


Posted on 2018/02/16 Fri. 23:45 [edit]

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